所感
社会情勢・政治経済・外交・宗教等について―今そこから見えてくる物。
次の世紀に向けた歩み
「プラハの春」

 僕は自分の欧州事業の拡大にともなって、新年早々スロバキアとチェコを訪れた。チェコの首都プラハはこれまで何度も訪れようと考えていたが、なかなかそれを果たせなかった。というより訪れる機会が得られなかった。

 1956年、ソ連政権による「スターリン批判」は驚天動地だった。共産党国家の成立以来、それまでもっとも功績があったとしていたスターリンを、粛正と恐怖政治の実行者としてソ連共産党・書記長が批判したからだった。
それまで、強制的に社会主義を押しつけられていたチェコスロバキアのノボトニー政権は、この動きに呼応してそれまでのチェコ粛正裁判犠牲者の名誉を回復、計画経済によって生じていた経済発展の行き詰まりを打開しようと謀ったのが60年だった。

 67年、ノヴェル・コホウト、ミラン・クンデラなどの作家たちはそろって社会主義政権を批判、チェコスロバキアに改革の芽が生まれ、68年1月に登場した共産党第1書記ドゥブチェクは、就任するや検閲を廃止、大統領にスムルコフスキー、国民戦線議長にクリーゲルを就任させて改革を加速させる。これが「プラハの春」だった。
8月20日深夜23時、ワルシャワ条約機構軍のソ連戦車は国境を突破、チェコスロバキア全土を一気に占領する。そしてモスクワに呼びつけたドゥブチェクを拘禁、開放政策の変更を迫った。22日、チェコスロバキアすべての放送はソ連軍により中断、終日チェコスロバキア国歌の「モルダウ」を流し続け、ニュースの外信も封鎖、電話はつながらずチェコは外部と遮断された。こうしてドゥブチェクの改革は停止する。年が明けた69年1月、カレル大学の学生ヤン・バラノフがソ連に抗議して焼身自殺。

 国連安保理はソ連批判を決議しようとするが、ソ連の拒否権でまとまらず、世界中はソ連批判一色になった。しかし米国大統領ジョンソンは、北ベトナムに武器・弾薬を供与していたチェコスロバキア支援を躊躇する。ジョンソンが行ったこの外交的な不決断が「プラハの春」訪れをつぶし、結果として東欧にさしかけた春の訪れを遅らせるのである。

 そして3月、ストックホルムで開催された世界ホッケー選手権大会で、チェコスロバキア・チームがソ連に大勝利する。プラハやブラスチラバの街中は群衆の喜びであふれかえり、国民の反ソ感情をしめしたが、翌70年6月ソ連はドゥブチェクを解任、ここに「プラハの春」は終わりを告げたのだった。


よみがえった春

 「プラハの春」から10年後の1978年、ポーランド出身のローマ教皇、ヨハネス・パウロ2世が就任する。彼は故国ポーランドの平和を心から望んでいた1人だった。
80年、ポーランド・グダニスクにある独立自由管理労働組合「連帯」は、委員長にレフ・ワレサを選出、ポーランドの民主化運動がスタートする。
 「連帯」はあっという間に全土に拡がり、自由化のうねりはポーランド国民を奮い立たせる。「プラハの春」は、場所を変え10年経ってポーランドでよみがえったのだった。米大統領レーガンはこの動きに素早く反応、プラハの失敗をくり返さなかった。ヤルゼルスキー政権は「連帯」と妥協し、内閣を大幅に変えて「連帯」幹部を閣僚に任命、ポーランドは民主化に向かって大きく前進する。

 それから10年経った89年、「ベルリンの壁」が崩壊。ついに共産思想と社会主義国家は消滅する。そしてさらに10年弱の経過を経て92年、欧州連合条約が締結、EUの発足に至るのである。
 「プラハの春」は40年かけて成長し、ポーランド民主化、「ベルリンの壁」崩壊、そしてEUという欧州共同体の結成にまでにこぎ着けたのだ。その推進役となった偉大な人物、ドゥブチェクと教皇ヨハネ・パウロ2世は、EU結成前後あい連れだって天国に召されていった。2人は欧州という戦乱の地に平和をもたらす契機を生み、それを育てた人物だった。彼らの死は、人間として生を受けた使命をまっとうすることがいかに重要かを印象づける。

 40年前「プラハの春」。30年前ポーランド「連帯」結成、20年前「ベルリンの壁」崩壊。そして10年前のEU結成。世界はこの40年間、10年刻みで改革へ向けて階段を上り続けてきた。大目標というものは、どのような困難に遭遇しても徐々に前へ進む。それが改革というものの本質なのだ。


小さなものから

 この40年間、改革を促したエネルギーはつねに大衆なのだ。「プラハの春」は強大国の圧政を跳ね返した民衆の力だったし、「ポーランド民主化」は労働者の連帯がエネルギーを爆発させた。「ベルリンの壁」の崩壊は、ドイツ国民が変わることなく抱き続けた熱意が結実したものだったし、EUの結成は、近代ヨーロッパの大衆が、数百年にわたって抱き続けてきた平和への希求だったのである。
 改革はつねに大衆によってなし遂げられる。大衆とは名も知れない小さな個人の集まりだが、それがまとまれば予想もつかないエネルギーを生み出す。この半世紀、世界は名もなき大衆が主人公となって撚(よ)りあげてきたドラマだったのである。
 このドラマは、まだまだ終わらない。チェニジア、エジプト、リビアとアラブの民主化は継続し、イエメン、スーダンにまで広がってきた。

 大木はつねに、枝の先から揺れ始める。小枝の先端が風になびき、枝がうなり、やがて幹を振るわせる震動となって大木を動かす。街頭で見かけるパノラマ大画面の美しい影像、実はこの大画面が点のような光源で出来ていることを知らない人はもういない。光の点が数十万、数百万と集まって美しい影像を構成する。デジタルカメラの画素数がそれを証明する。
 すべては微細からスタートする。だいたい太陽の光そのものが光子という粒子の連続なのだ。僕たちの存在する世界で大から始まるものなどあり得ないのだ。海の水も鉄塊も、宇宙さえもすべてがクォークという原子を構成する微細なものから生じる。

 毛沢東は「革命は農村から」と宣言した。数万人の中学生年代が働く露天掘りの撫順炭田、巨大炭鉱の底を見下ろす山頂には、「身在炭鉱、胸想祖国、眼放世界(身は炭鉱にあれども、胸に祖国を想い、眼を世界に放て)」と大書された看板が掲げられる。子どもたちは毎日その看板を見て石炭を採掘してきた。毛沢東は青少年という名もなき大衆が、やがて国家形成の核となることを知っていたのである。革命はつねに小から大へと広がってゆく。

 田中角栄は「川上から川下へ」という選挙戦術を生み出した。その申し子・小沢一郎は、子飼いの新人議員に「選挙は山村の小集団に根を下ろし、最後に大都市有権者に支持を広げる」と説いて、村々から支持を拡大してゆくことを教えた。ここにも小が大を形成する思想が見て取れる。
危機は機会

 いま、プラハの焼身自殺現場に立っている。そのレリーフを手でふれながら、氷点下10度の厳寒、プラハを訪れる外国人観光団の多さに驚いている。プラハ城の美しさは目を見張るほど、街並みの素晴らしは驚くばかり。これほどの美的空間をどうやって形成してきたのだろう。この市街地がわずか40年前、戦車で蹂躙されたことを知っている観光客はどれほどいるだろうか。現在の繁栄は、市民が戦車の前に立ちはだかった歴史を下敷きにして成り立っている。
 大きな改革は小さなものが集まって出来、その大衆意識が継続して成果となる。「プラハの春」からEUの結成まで40年を必要としたように、小がエネルギーを解放して結実するには、継続という添加物が欠かせないのである。

 企業は経営者が変わらなければ何も変わらないという。しかし、そうばかりとは言えまい。企業は企業を構成する社員が成長しなければ、成果を上げることは難しい。だから、どの経営者も、社員個人の力量を上げようと必死なのだ。国家も同様だろう、国民一人ひとりが成熟しなければ国家の発展は望めない。なぜならば国家は国民意識の上に立って形成される。

 いま日本は6重苦にあえいでいる。円高、少子高齢化、産業衰退、技術停滞、高い法人税率、農漁業の衰退。それらをどうやって解決しよう。その具体的なイメージが、僕の中で徐々にふくらんできている。
 解決に向けたスタートが儒教や道教などの中国思想を学ぶこと、仏教を一般的な生活に取り込もうとすることだった。10年続けてきた僕の活動がそれを証明する。そして次にとり組むもの、それが中小企業による欧州企業の買収、M&Aだ。

 各国の金融はご承知の通りに大荒れだ。この混乱は日本にとって決して危機ではなく、最大のチャンスとなった。まさしく「危機」は「機会」なのだ。時代の潮時、転換期はチャンスの時でもある。チェンジはチャンスなのである。
 EUも米国も株価は30パーセント以上も値下がりして、土地や建物は軒並み値を下げてきた。この期を逃さず、閉鎖日本は外に出て意識を開くべきだろう。企業買収にもっとも適した時がやってきた。それを活かすためには、生産地は日本でなければならないという、つまらないこだわりを捨てることだ。
 これまでの日本は資源を輸入し、国内でものを作り、それを海外で売って国としての稼ぎを出してきた。入るに輸送費、出るのも輸送費がかかる。日本製品が高価格の原因はここにある。世界中の製品価格が下落するデフレの時代は、日本モデルは成り立たない。加工貿易サイクルを転換しなければならないのである。

 まず転換しなければならないのは生産地を海外に移すこと。国内生産から海外生産へシフトし、海外で作った製品を海外で売れば、高価格体質は是正される。その上で、出した利益は日本国内に還元する。こうした新しい「資本循環」をつくれば日本は戦後を上回る高度経済成長を遂げることも夢ではない。

 それでは空洞化が進むのではないか、と言う人がいる。不安は入らない。送金されてきた利益を使って新製品の開発を日本で行えばいい。つまり「ものづくり日本」を「開発日本」へ生まれ変わらせるわけだ。日本の中小企業、とりわけ製造業はここで鎖国体質を改めて、海外生産に切り換えるべきだと思う。その先鞭をつけるため、僕は欧州で会社を設立した。


高原穿鑿(せんしゃく)の歩み

 「もの作り」から「開発国拠点」に。そのためには教育改革が欠かせない。世界から優秀な人材を呼び込まなければ新製品の開発はおぼつかない。しかし日本は、外国人が住むのにもっとも難しい国になってきた。小学生をもつ研究者が日本で生活できるだろうか。英語で授業を受けられる小・中学校などひとつもないし、欧米人にはアパートを貸しても、アジアの人が住居を借りるのにどれだけ苦労しているかご存じだろうか。

 教育の国際化が重要と目星をつけていたら東大が秋入学に移るという、大賛成だ。やっと大学が教育の国際標準を語り始めた。でも教育を論じるのは他の機会にゆずろう。
 とにかく21世紀に入って世界は大変革の歩みを大きく進めている。その主役は個人であり、中小零細企業なのだという僕の信念は揺るがない。点滅するささやかな光が強く燈(とも)って輪を広げれば、必ず巨大な輝きになる。ささやかな決意が大きな変革に成長する。でもそれには「継続」がなければ成功しないことは先に述べた。

 法華経の第10章に象徴的な喩えが説かれる。「高原穿鑿(せんしゃく)」という。ある人が水を得ようとして高原を掘り始めた。なかなか水は出てこない。あきらめずに掘り続けると、地面は色が変わって湿り始める。なおも掘り進んでやっと泥水に到達する。それでも手を休めなければ、清らかな涌き水に至るという。

 この話を僕は信じている。おそらく、土が湿り始めるまでに数年を要する。泥水までに十数年、夢の実現と希望の実現には数十年単位の時間が必要なのだろう。どんな困難にもめげずに継続すること。それを示したのが世界の民主化という歴史的事実ではなかったか。

 やっと僕の意識はここまできた。21世紀から30世紀まで、日本を今後1000年に渉る繁栄に導くために個人の力量を上げなければならず、わが国の中小零細企業が、世界に目を開いて立ち上がり、技術力をさらに磨いて発展しなければならない。「日本で中小企業、世界で大企業」という会社が生まれなければ、日本の発展はあり得ないのである。そのためによいと思ったことはドシドシ行動に移そう。その上でそれを継続しようと決意質している。

 こうした目標を目指して、これから僕の歩みはとまらない。みんなという仲間がいる限り、日本国民という大衆がある限り、夢の実現に向けて前進する決意なのである。